ニュージーランドの高校に単身留学をし、日本帰国後は進学せずに就職の道を選んだ藤崎優哉さんは、アパレルやコールセンターでの業務に従事した後、転職した会社において3カ月間の給料未払いを経験したことから、コンサルティングの道へ進むことを決意したといいます。現在は、企業の中途採用支援を行う会社で事業企画・商品企画を担当している藤崎さんに、留学時代の思い出や高校卒業後の進路、現在携わっている業務などについてお話を伺いました。
高校卒業を目指し単身留学に挑む
卒業を目的とした高校留学のために初めてニュージーランドを訪れたのは、2008年のこと。大した英語力もないまま飛び込んだ現地の学校で、「本当に全部英語なんだ」と周りの環境に感動したことは今でも良く覚えています。
最初は英語が分からなくても単位が取りやすい授業を選択した方がいいというアドバイスをもらっていたこともあり、1年目に受講したのは、他言語を母語とする人のための英語クラス・ESOLや、日本語、ホスピタリティー、数学などです。数学に関しては、自分はもともと日本の高校に通っていたので、すでに勉強したことを復習しているという感覚でした。
ただ、大変だったのは授業中に先生から回答を求められたとき。答えが出ていたとしても、クラスの前でそれをどのように英語で説明すればいいのかが分からなかったんです。最初の頃は現地に友達もいませんでしたし、苦労しました。
特に、学校にいる間はどうしても同じ日本人の留学生と一緒に行動することが多くなりがちだったということもあり、ほかの国から来た留学生や現地の人と関わる機会を作りたいと思って、学校のサッカー部に所属することにしたんです。週に1回は現地の人と同じように練習をして、2週間に1回は練習試合のため他校を訪問。このことにより、徐々に交友関係も広がっていきました。
また、どうにかして相手から声を掛けてもらいたいという気持ちから、髪の毛を金髪に染めたりもしました。これが意外と「スーパーサイヤ人みたい」と評判は上々で、実際に会話のきっかけになったことも何度かあります。当時は現地で友達を作るために、試行錯誤していました。
「やることなくて」 暇な時間に英語学習
自分の英語力に成長を感じだしたのは、渡航から3~4カ月ほどが経った頃。授業の内容が分かるようになってきたというだけでなく、日本語と同じレベルで相槌が打てたり、返事ができている自分に気が付いた時、ようやく普通に会話ができるようになったと感じました。
現地の人たちと肩を並べて授業を受けていたので、英語力を伸ばすために、友達作りはもちろんのこと、その日分からなかった単語をまとめたノートを作ったり、本屋に行って英語で書いてある漫画を読んだりしていました。
もともと勉強が好きというわけではありませんでしたが、分からないことを分からないままにしておくのが嫌だったんです。それに自分が留学していた北島の小さな町には、ほかに娯楽がなくて。ただ、時間だけはたくさんあったので、勉強をするしかなかったというのも英語学習により打ち込めた理由の一つです。
高校卒業後に就職 生きる道を模索
2年をかけて高校を卒業した後は、日本で就職することにしました。本当は少しだけ海外の大学に行ってみたいという気持ちもあったんですけど、理由を聞かれれば「なんとなく」という程度の思いだったこと、そして家族から戻ってきてほしいという強い希望があったことで、一度帰ることに。親には寂しい思いをさせてしまっていたのだろうと感じたんです。
もちろん、当然、帰国子女枠で日本の大学を受験するという選択肢もあったと思います。でも、進学するにしても、何か明確な目標を持っていたわけではなかったので、最終的には就職の道を選ぶことにしました。
当時はまだ10代。ファッションに興味があったこと、そして「格好良い」という場所への純粋な憧れから、まずは渋谷でアパレル店員として働きました。派手な洋服を扱うようなショップだったため外国人が来ることも多く、少なからず英語を使う機会はあったのですが、ある日、他県に新店舗をオープンすることを理由に、転勤の話が持ち上がって。やむを得ず転職することにしたんです。
今度は留学経験が存分に生かせる仕事がいいと翻訳事務の仕事に応募したものの、いざ入社してみれば、担当することになったのはコールセンター業務。インターネットをすでに使っている人に、電話で開催中のキャンペーンを案内する仕事でした。
厳しい言葉やクレームをいただくことも少なくなく、大変なこともたくさんありましたが、これが意外と自分に向いていたようです。声だけで相手が今どういう感情なのかを読み取り、その状況に適切な言葉を選んで、分かりやすく伝える。それがとても面白くて、入社から半年が経つ頃には部門のリーダーを任されるほどになっていました。
そのうち国が出すような大きな案件も担当するようになり、最終的には150人ほどのスタッフを管理するセンター長にまで上り詰めました。
給料未払いでコンサルティングの道に
それから、上司が起業するというので手伝うことになり、5年勤めた会社を辞めて転職しましたが、それも3カ月で退職。社内で大きな問題が発生し、その間の給料が一切支払われなかったんです。悔しかったけど、当時は自分にも知識がなかった。ただ、一つの企業をゼロから作り上げることの大変さは分かって、だからこそ「もっと学びたい」と思い、今度は企業の新規事業の立ち上げをサポートする外資系のコンサルティング会社に就職することにしたんです。
飛び込んだそこは、初めて見る世界。コールセンターでは、すでにできあがった商品を販売するというのが自分の役割で、たとえお客様の反応が良くなかったとしても、結局は言い方を変えて同じ商品を案内することくらいしかできなかったのに対し、コンサルティングでは、クライアントが欲しい物を一緒に考えることができるんです。
クライアントは、大手企業で研究開発をしている人たちでした。さまざまな研究機関が持っている新しい技術をどのようにしてサービスにつなげ、世に出していくか。そしてテストマーケティングをして、売り上げ予想まで出す、というのが私が担当していた業務です。
中には海外進出を考えている企業もあり、業務中に発生する他国企業とのやり取りでは、英語をツールとして使う機会も。それまでとは違って、直接的に留学経験を生かせる仕事だったと思います。ただ、ニュージーランドの高校卒業後、日本に帰国してからはずいぶん長い年月が経っていましたから、感覚を取り戻す必要がありました。自分で不足していると感じた英語力の分は、通勤中に英語のニュースを聞いたり、英字新聞を読んだりと、積極的に勉強するようにしたんです。
非常に大きなやりがいを感じた仕事ではありましたが、人材不足が原因で、一人当たりに対する業務量が膨れ上がっていって。どうしようかと頭を悩ませていた時、担当していた企業の一つがコンサルタントを探しているということを知ったんです。そのまま意気投合して転職したのが、今働いている会社です。とはいえ、業務上連絡を取り合う機会も多いので、以前の会社ともいまだ良好な関係を保てています。
今につながっている全ての経験
今は、メディアに求人情報を掲載したり人材紹介をしたりと、企業の中途採用支援をする会社で働いています。その中で自分が所属しているのは、新規サービスを作る部署です。
もともと大きな営業力を持っている会社ではありましたが、以前は企画できる人材が非常に少なくて。私が入社してからはまだ1年ほどですが、事業企画や商品企画を担当するに当たり、今まで整理されていなかった部分をきれいにして滞っていたプロジェクトを進めたり、お客様に対しては、既存のサービスだけでなく新しいものを提供できるように提案したりできることに、やりがいを感じています。
また、外国人エンジニアたちが所属する部署があって、彼らは非常に優秀な人材であるにもかかわらず、社内に英語でコミュニケーションを取れる人がいなかったという理由から、エンジニアリング業務をわざわざ外注したりしていたんです。それが今では、自分が中に入って、一緒にプロジェクトを組んでサービスを作ったりすることができるようになりました。
これまで紆余曲折、いろいろな経験をしてきましたが、今は英語を使う業務にも携われているし、結局後で思い返してみると、全ての出来事はつながっているんです。
唯一、自分の中ではいまだに給料未払いの件で悔しい思いをしたことが心の中に残っていて。まだ具体的なプランは決めていないけれど、いつかは自分で、もしくは同じ志を持った誰かと一緒に、新しいことに本気で取り組みたいと思っています。
NZdaisuki magazineは頑張る人を応援します
人生の中でも大きな決断といえる、海外留学。年齢に関係なくいつでも挑戦できるのがニュージーランド留学の魅力の一つですが、「みんな、留学した後はどうしているのかな?」――そんな疑問や不安を感じる人も少なくないのではないでしょうか。
フリーマガジン「NZdaisuki magazine」では毎月、留学後に活躍しているさまざまな“人”にインタビューしています。中には「こういう道もあるのか!」とはっと驚くような道を歩んだ人も。
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