
Interview vol.7
日本学術振興会特別研究員
伊藤 泰信さん
多様な角度からマオリを知って
(Quarter 2002年夏号より)

ニュージーランドは日本と赤道を挟んで反対側にある国。その遠い国の先住民の研究を始められるまでのいきさつをお話しください。
まず、異文化に興味を持ったきっかけについてあまり意識したことはなかったのですが、小学4、5年生の時、家によく来ていたアメリカ人教師の存在にあったと思います。実家がクリスチャンで、なおかつ父が高校教師だったこともあり、アメリカのコロラド州から来た英語教師と家族同様に付き合っていました。その時に日本とは違う習慣があることに気付いたのです。私の家はいわゆる「先生一家」だったので、その後大学は自然に教育学部に進みました。ただ異文化への関心は持ち続けていましたので、大学院からは文化人類学に専攻を変えました。
1993年に初めて先住民の調査を前提に、北海道を訪ねました。文化人類学というのは自分とは違う文化を研究する学問で、自国と離れたところで研究活動を行うのが良しとされています。実際、海外行きを勧められることもありましたが、日本にも民族をめぐる諸問題はあるのだからと、自分の足元から始めようと思い、アイヌを取り巻く状況を研究することに決めたのです。同じ日本というくくりの中でも、在日韓国人、沖縄、日系ブラジル人などの研究対象がありましたが、あまり研究者のいないアイヌをあえて選びました。 アイヌもマオリも置かれている状況は似ており、土地や資源の権利といった問題が存在します。ただ、政府の先住民政策には大きな隔たりがあり、世界で最も進んでいるのはニュージーランド、反対に最も遅れているのは日本です。ですから、この両極端な2つの国の差を見てみたいと思いました。それと、アイヌ同様、やはりマオリの研究者があまりいないことも、この国の先住民研究を始めるきっかけになりました。事実、日本人で文化人類学の研究を目的に、ニュージーランドに来て活発に調査している人はほんの数人しかいません。またこれは日本人に限ったことではなく、文化人類学(ニュージーランドでは社会人類学と呼ばれる)の分野においては、マオリの血をまったく受け継がないパケハ(英国系白人)の研究者は数えるほどしかいません。私にとってはなぜこういったことが起こるのかも興味の対象であり、研究テーマの1つでもあるのです。
1960年代後半に、アメリカで繰り広げられたベトナム反戦運動やブラックパワー(黒人解放運動)の影響は、ニュージーランドにも波及し、この国でも「マオリ・ルネッサンス」、つまりマオリ復興運動が起こりました。パケハの先生から自分たちマオリのことを学ぶことや、パケハがマオリについての本を書いたりするのはおかしいとし、それまでのパケハ主導ではなく、自決への努力を始めたわけです。これがマオリ独自の学校や、大学のマオリ学部創設のきっかけです。またマオリについての調査・研究もパケハではなく、マオリの学者がマオリのために行うことを始めたために、パケハの研究者は現在ほぼ皆無なのです。
パケハでは問題ならば、伊藤さんのような日本人研究者はいかがですか。彼らは日本人のことをどのように思っているのでしょうか。
私の主な研究テーマはマオリの教育についてです。各教育機関で文化や言語、独特の文化をどのように教え、学んでいるかを調査しています。そのため、今回も北島のウレウェラ国立公園内にあるルアタフナという村に滞在していました。今回はファレ・ワナンガ(マオリの大学)で日本文化を教えるチャンスがありましたが、マオリの日本人に対する認識はパケハに対するものと違います。マオリ対パケハという対立軸が非常に強いので、パケハではない日本人は、マオリの側に近いと見なされることになります。それに独自の文化、言語、歴史、そして固有の土地を持っているという観点から、日本人はマオリ同様、タンガタ・フェヌア(土地の人:先住民)だとマオリは認識しています。ですから、調査を行う日本人の私に対しても、私がマオリ語を話すことも手伝って、大変好意的です。
またマオリの人たちも日本について興味を持っています。マオリもパケハも個人主義に見えるので、マオリはパケハに近いと日本人は思いがちですが、彼らは日本人の文化的な面を見、自分たちに近いと考えているのです。
文化の復興はまず言葉からということで、コハンガ・レオ(0〜4歳のマオリの子供を保育する幼稚園)、クラ・カウパパ・マオリ(5〜12歳のマオリの児童にマオリ哲学を含む教育を行う小学校)、ファレ・クラ(中学・高校)、ファレ・ワナンガといった教育機関では、マオリ語のみを話すことになっています。今のおじいさん、おばあさんぐらいの年代は、学校でマオリ語を話すと罰せられたので、自分の息子、娘、つまり今の子供たちの親には英語のみを身に付けさせました。これがマオリ語の衰退の一因となっています。マオリの学校はそれを食い止めるために創られました。彼らは日本人のように、自国で自らの言葉を使って日々暮らすことを目指しています。
ルアタフナの学校では、子供たちのためにマオリ語と日本語のカタカナの対比表を作り、子供たちはそれを見ながら自分の名前をカタカナで書いて楽しみました。こうした言葉から親近感が生まれているというのもありますね。マオリ語の母音と日本語の母音は順序こそ違いますが、同じですから。
このように時に日本文化を教える立場に回ることもありますが、これはなかなか難しいことであると同時に、楽しいことでもあると実感しています。それに責任も大変重いですね。多くのマオリの人たちが持つ日本に対する認識と実状がかけ離れている場合もありますから、その点を気を付けて説明するようにしています。というのも以前、私が出演した『テ・カレレ』というマオリ語ニュースで、私が話している時のBGMに琴曲が流れるなど、彼らの抱く日本のイメージそのままに脚色されてしまったのには参りました。
私の調査の中心であるクラ・カウパパ・マオリのために日本語とマオリ語を対比させた本や辞書が作れれば、調査の恩返しになると同時に、マオリの日本語学習熱というニーズにこたえられるのではないかと今、考え中です。
マオリの研究者として、私たち日本人とマオリの人たちはこの先どうやって接していくといいと思われますか。
植民地化されて160年、マオリは現在もパケハに土地を取られただけでなく、自分たちの言葉をも失いつつあることに大変な憤りを感じています。マオリ語が学校で禁止されていた時代、私の知り合いのおばあさんはマオリ語をしゃべった罰で、手の指の第一関節すべてを木製の定規で折られ、今も指が曲がったままです。実際、彼女は英語が分からないマオリ人クラスメートに、先生の言っていることを説明しただけだったのですが。これが自分に起こったことだったらどう感じますか。過去を知らずに、今のマオリは理解できません。
さらに、マオリの人たちのことをバランスよく知ってほしいですね。この国にやって来た時、何のつてもなかった私を助けてくれたマオリがいたように、ホスピタリティーあふれる一面を持つ一方で、映画の『ワンス・ウォリアーズ』のような暴力的な面を持っている可能性もあるわけです。どちらか一方だけを取り上げて、それが「マオリ」だとするのは、非常に危険なことです。パーツだけで彼らを見ると、それはゆがんだ像になるだけです。メディア関係者も、偏ったマオリ像を伝えないよう配慮してほしいと思います。
マオリのパケハへの同化が進んだ現在、マオリの特色を残す代表的なところに、観光地があります。ここが日本人とマオリ文化との接点ですが、ダンスなどを見るだけで終わってほしくないですね。ぜひ彼らと話をし、友達になってほしい。日本人はニュージーランドを「パケハの国」として訪れますが、実はここはパケハのみのモノカルチャーな国ではありません。マオリ文化が現在も生きている場所でもあるのです。マオリの文化や言語を学んでみてください。日本に帰ってから、自分の足元の問題を考える上でも、その経験は役に立つはずですよ。
(2001年9月29日、オークランド、ジャパンメディアクリエーションズのオフィスにて)
Yasunobu Ito
いとう・やすのぶ●1970年4月28日、福井県生まれ。2001年3月、九州大学大学院博士後期課程単位取得(文化人類学)。1996年からマオリの研究を始め、1997年に初めてこの地を踏む。現在日本学術振興会の特別研究員として、ニュージーランドの北島を中心に、マオリの研究を進めている。日本では非常勤講師として、文化人類学の教鞭も執っている。
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