
マオリ特集
Waiho i te toipoto, kaua i te toiroa
―どうか私たちをお互い隔てることなく、
ともに歩ませてください―
ニュージーランドの原住民マオリ。あまりにも奥が深い彼らの文化、考え方を理解するための第一歩を踏み出してみませんか?
(Quarter 2000春号より)
Text by Mari Clothier

Charles Frederick Goldie & Louis John Steele
The Arrival of the Maoris in New Zealand 1898
Auckland Art Gallery Toi o Tamaki,
presented by the late Mr. George and Helen Boyd
ハワイキ、ハワイキヌイ、ハワイキロア、ハワイキパママオ――これがマオリの人々がやって来た伝説上の故郷と言われている。はっきりこの土地が現在のどこに当たるかは定かではないが、おそらくマーケサス諸島、クック諸島、ソシエテ諸島、ピトケアン島の辺りなのではないかとする説が一般的だ。こういった島々からは星や太陽、潮の満ち引き、渡り鳥の飛ぶルートを手掛かりに航海する者たちが多く大海原に乗り出していった。
今から約1000年前、ニュージーランドを初めて発見したのは、こういった勇気ある航海者のうちの1人、ハワイキのクペだった。海の上に横たわる土地がまるで長い雲のようだったため、彼の妻、ヒネテアパランギが「He ao, he ao!(雲だ、雲だ!)」と叫んだ。そこから現在の「アオテアロア(長くたなびく白い雲の土地)」と呼ばれるようになった。
では、マオリはもともとどこからやって来た、どのような民族だったのだろう。約3万年ほど前、東南アジアの島にいた「オーストロネシア語族」がマオリの遠い祖先だと言われている。その後今から4000〜6000年ほど前に一部は北上し、一部は南下してから西と東に枝分かれし、東へ行った者たちが南太平洋の島々を経て、ニュージーランドに行き着いたのだそうだ。さらに、そのまま東へ進みイースター島、南アメリカ大陸にまで到達した者もいたと言う。
さて、クペによるアオテアロア発見後、全部で3期に渡る移住が行われた。そのうち1350年に行われた移住は「ヘケ」と呼ばれ最も大がかりなものとして有名。タイヌイ、テ・アラワ、マタトゥア、クラハウポ、トコマル、アオテア、タキティム、マフフ、ママリ、テ・ママルといったワカ(カヌー)に乗ってハワイキからアオテアロアに多くの人々が移住した。現在の部族の祖先はこれら各々のカヌーにさかのぼることができる。
アオテアロアでは彼らが故郷から持ち込んだ熱帯性の植物は育たず、代わってクマラ(サツマイモ)、ヒョウタン、タロやヤム芋を育て食糧にした。さらに沿岸部の豊富な魚介類、森に住む飛べない鳥も彼らの食糧源となった。住居は3〜5メートル×2〜3メートルの四角形の基部を持ち、アシ、ヒメガマでできていた。壁がないものも多く、屋根はトタラの木の皮をふいて作られていた。血のつながり、義理の関係など広義の意味でのファナウ(家族)の絆を大切にし、そのコミュニティ内のマラエ(集会のためのエリア)に集った。自然と祖先を崇拝し、重要な聖職者でなければ名前を口にすることも禁じられていた最高神イオや複数の神、半神半人が存在した。
1642年に「ニュージーランド」の名付け親オランダ人探検家エイベル・タスマンが、1769年から3回に渡りキャプテン・クックがこの地に上陸。その後続々とヨーロッパ人が入植してきた。
ここで忘れてはならないのが、ワイタンギ条約だ。以前はこの国での土地の売買、貸し借りは個人間の取り決めによって行われていたため、問題が絶えなかった。それを鎮めるために登場したのがワイタンギ条約。1840年のこの条約締結に伴い、マオリの部族長たちは彼らの土地の管理権を英国女王に譲ることに同意したことになるが、条約のマオリ語訳によると、彼らのすべての土地、村、財産に対する支配権は保持し続け、地主が売却を希望し、公正な値段で両者が同意できた時のみ女王に権利を委託された者はその土地を購入する権利を得る、となっている。この双方の矛盾は締結後、現在に及ぶまで物議を醸す結果となる。原因はもともと英語で書かれた条約をマオリ語に訳した時にオリジナル通りの意味を完全に表現することができなかったからだと言われている。しかし、その根底には、マオリ、英国各々の土地に対する考え方自体に大きな開きがあった。ヨーロッパ人にとっては土地は単なる「もの」でしかあり得なかったが、マオリにとっては「タネ(森の守護神)からの聖なる贈り物」であり、「部族の先祖から受け継ぐもの」であり、「命をかけて戦い、勝ち取るもの」であって、売り買い、物々交換、譲渡するものではなかったのだ。
この条約はマオリとヨーロッパ人との間の争いの新たな火種となり、「ニュージーランド市民戦争」とも呼ばれるマオリ土地戦争がコロラレカ(現ラッセル)、ワイカト、ベイ・オブ・プレンティなどで発生した。ナ・プヒ族のリーダー、ホネ・ヘケ・ナプアが英国に抗議し、英国軍の国旗のポールを4回に渡って切り落とした事件やテ・クーティ・アリキランギが英国軍のみならず、土地を英国に売却したマオリに対してまで行ったゲリラ戦は有名。しかしながら、最終的にマオリは敗北を期した。
ヨーロッパ人の移住によりマオリは交易の方法を覚えたり、新しい道具を使用した生活を始めた。それと同時に銃やマオリに免疫のない病気をももたらし、それらは多くのマオリが死ぬ原因となった。1769年には12万人だった人口は1896年には4万2,000人にまで減少し、マオリは「死に絶える民族」とまで言われた。
各部族としてではなく、マオリ全体としての政治参加のために1859年に始められた王擁立運動、1867年のマオリ代表制法による議会での4議席の確保、1890年代前半のマオリ独自の政府樹立への専心など政治面でもさまざま努力をしてきたが、なかなか成功に結びつかなかった。そんな中、1909年に正式にアピラナ・ナタ卿ら3人がマオリ青年党を結成し、国会に代表を送るまでの成果を上げた。
第一次、第二次世界大戦では、マオリたちは志願して戦争に参加し、故国ニュージーランドのために戦った。第一次大戦のマオリ・パイオニア部隊、第二次大戦の第28マオリ部隊はマオリならではの統率力、戦闘力を見せ、目覚ましい活躍を見せた。
ニュージーランドではワイタンギ条約の国内法化の手続きが滞り、条約の国内法としての効力は裁判所によって長らく認められていなかった。1975年のワイタンギ条約法によって、この問題を解決するための政府機関としてワイタンギ裁判所が設立されたほか、1985年のワイタンギ条約改正法により、条約のマオリ語版がようやく承認されるに至った。1995年にはエリザベス女王が正式にこの件を謝罪し、補償を約束している。
依然として失業、犯罪などの面で問題を抱えているが、70年代のデモをはじめとした抗議運動、80年代に始まった政府のマオリ権利回復運動、90年代には漁業、酪農業などに次々と乗り出し、徐々にマオリの権利は回復し始めている。
今も昔も自分の部族のマラエを慕い、ファカパパ(家系図)を重んじ、自らのファナウ、イウィ(部族)、ハプ(準部族)に誇りを持つマオリ。ハワイキから大海原に漕ぎ出した祖先のように、現代のマオリたちも「世界」という荒波に漕ぎ出したばかりと言えるのかも知れない。>>次のページへ
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